スティーブ・ジョブズ(Ⅰ)の書評

発売されて早々に購入したジョブズの本の前編を読み終えた。この本の印象であるが、私の専門の工業デザインとマーケティングの入門書、コンピュータ技術の歴史書、家族愛の物語、色々な性格の人々が登場するので臨床心理学的な本でもある。一般の人達は工業デザインを殆ど知らないであろう。現在でも、親族に私の専門が工業デザインと説明しても、彼らは首を傾げるだけである。いわんや、30年近くも連れ添った妻も殆ど理解していない。ジョブズの本は、全世界的に数百万冊以上は売れると予測されている。日本国内でも百万冊近くは売れるかもしれない。それを考えると、工業デザインの認知度は飛躍的に高まると期待するのは私だけではあるまい。ジョブズのいろいろな奇行や感情の激高は有名であるが、そのデザインに対する態度は奇行とは思えなかった。私が企業のデザイナー時代も、彼と同じように、設計者から見れば些細なことに、何故、そこまでこだわるのかを彼らの言葉から何度も聞いた。その意味で、この本は、最近の物分りのよい若いデザイナーへのよい具体的な事例となるであろう。是非とも若いデザイナーが本書を一読することを推奨する。
デザインに関する章の末に、製品が完成したときに、作品完成のセレモニーとして、それに関わった全てのメンバーのサインを図面用紙に寄せ書きすると記載されていた。それを消費者の誰も見ない筐体プラスチックの裏側にエッチングして、サインを残すことになる。かつて、私が勤務していた会社がゲームメーカと連携して、「ピピン」という初期のゲーム機を開発したことがある。その製造と一部の画面デザインはその会社が行なったのであるが、基本設計はアップルが行なった。初めて、そのゲーム機が届き、その筐体を外したとき、その裏側に多くのメンバーのサインがあったときの衝撃を思い出した。現在も日本のメーカーは関係者の匿名性(アノニマス)を維持しているが、個人的には、そのために、製品化の完成度が高まらない要因になっていると考えている。世界的な建築の日本人デザイナーが多くいるのもアノニマスでないからである。私が課長ぐらいから、勤務していた会社ではグッドデザイン賞の申請には匿名性を廃した。現在では、多くの企業が追随している。高いモチベーションのないところに優れた製品は生まれない。
最後に、アップルがベンチャーとして成功したのはマーケティングの力を上手く用いたことがその要因であることが分かりやすく書かれている。また、多くの失敗から学び成功を掴んだことも参考になる。ジョブズのプリンシィブル(principle:辞書では「主義、原則」などとあるが、要はどんなことがあっても揺らがない、譲ることのできない自分の筋、哲学)な生き方も、日本の禅の思想から得たものである。この言葉を聴くと、戦後に通産省を創設した白洲次郎を思い出す。彼は私の尊敬する日本人の一人である。